変わる

東日本大震災から3年が立ちましたね。3年。長くも感じるし短くも感じる。時間の経過は、「今思えば」あっという間と感じるけど、じっくり振り返ってみるとそれはそれは色々な出来事や感情を経てようやく今に辿りついた、と考えると長かったと感じることができる。この3年を振り返ると、今でこそミノムシのような生活だが、確かに色々なことを経験したといえる。色々な感情や考えを経て、今が完成しているんだな、と。僕の住む町も、利用する駅やその周辺もとても3年で変わった。最近は、「前はここに何が建っていたっけ」と新しい建物を見る度思い返すことも増えた。小さい頃遊んだ公園は市営住宅になり、栄えていた商店街はとうとう肉屋を残すのみとなり、更地がパーキングになり。なにやら町中に権利が敷き詰められているような気がする。3年、5年、10年、と振り返るとやはり物悲しい。
それを地震は全て奪ったのだ。懐かしさや物悲しさ、新しいものと過去のものが交わって行くようす、そしてその町に住む人々。そんな町の記録の数々はその瞬間に文字遠いの塵と変わった。その「塵」一掬いに家やテーブルや人骨が含まれている。その有様は想像するに耐えない。

今yahooで「3.11」と検索すると、その数につき10円がyahoo側から寄付されるという。僕も3、4回くらい検索したら1回きりだそうだ。ただそれで思ったのだが、僕はただ検索しただけなのだ。例えば、知り合いに10円募金しておけよ、と言うのと全く同じ。その10円が支払われたかは分からないし、自分は何もしていない。むしろ少ししてやったような気になっている。その検索募金は500万円が上限だという。それなら500万円払えばいいんじゃないか、そんな単純なことじゃないのかもしれないが、用意された500万円があるなら、そんな検索どうこうとやらずすっと寄付すればよいのではないか。いやもしかしたら初めから500万円は払うつもりで、日本人がよく利用するyahooというメディアが検索で募金、というならではの訴えで人々から東日本大震災であった数々の出来事を風化させないために便宜上そういう形にしているのかもしれない。ただ、それはやった気になった人々を少なからず呼ぶだけではないか。偽善という言葉があるが、僕は偽善であってもやったという事実は、少なくとも事実である。しかし、検索はただ委託しただけ。中には、思いよ届け!と検索をかけている人がいるかもわからない。当然、募金やら何かしらボランティアのようなものに参加するというような作用をおこしているということも十分にあるだろう。
決してその検索募金が悪いシステムだとは思わない。僕が嫌なのは、やった気になった人がいるということ。簡易なシステムで自分は何もせずに気持ちだけ熱くなる。忘れないことは大事だし、少なくとも東日本と呼ばれる地域でそれを体験した人にとっては忘れ難い出来事であるから、気持ちが熱くなるのは構わない。自発作用が大事である、と思う。
したり顔で検索するなら、気持ちくらいは大事にとっておいて欲しい。
そして明日は我が身という言葉がある。そこにそれらは繋がることも。ドンキホーテで防災グッズを買ってお釣り募金すれば十分である。