愚痴

スターバックスに1人で入ったのは初めてかもしれない。新横浜の2階に駅のエントランスを一望できる席のあるスターバックスがある。いつかはあそこで行き交う人たちを眺めていたいと思っていたけど、いつも混んでいるし、横浜スタジアムでイベントなんかあるときはエスカレーターまで列が伸びている。行ったことある人にしか分からない。ただ今日はどうしても時間を潰したかったから思い切って突入してみた。横浜スタジアムでイベントは無かったようだけど、あいにくその席は埋まっていたから、エスカレーターを下る人を眺めることができる席についた。本を読んだけどなかなか集中できない。ただマックよりは落ち着いていたから少し高いけどまた来ようと思う。
時間を潰さないといけない、というのは、単純に家の居心地が悪いから。母親は訳のわからない小言ばかりいうし、妹は反抗期の完全体である。犬は相当可愛いけれどやることがあるのに構ってくれと吠え続けられるのは相当ストレスになる。それに今まで家でだらけ続けてきたから自然と気力を奪われていく感じもする。家にいて、家の人物と関わってもろくな事がない。
親孝行はしっかりしたいと思う。ただ一体それの実態は何?肩叩き券をプレゼントすること、旅行に連れていくこと?車や家を買ってあげること?先立ってしまわないこと?きっと母親の場合は安定した企業に僕が就職することが一番の孝行であると思う。でもそれなら、今の僕なら応えてあげることはできない。最近話していて、根本から母親と意見が合わない。はっきりいってメーカーも専門商社だって入りたいと思わない。業種について理解があるわけじゃない、そんなこと言っていられる立場ではないのは間違いない。でもやりたいことがある、それはきっと安定なんてしていないし、金だって稼げないし、学歴社会と呼ばれるものには淘汰されるようなものかもしれない。ただ心の底から音楽の新しい領域を作りたいと思っている。
少しだけ賢い人間は、自分よりも賢くない、自分よりもばかだと思っている相手の意見や考えを、世間知らずの馬鹿がなんだか寒いこと言ってる、と聞こうとしせず、勝手に優位にたったつもりで、賢人にでもなったつもりで、うすら笑いでも浮かべながらそれらを否定する。母親もそんな感じだし、そういうやつは少なくない。確かに僕は賢くなんてないし、世間だって知ったこっちゃない。ただ優位にさせたつもりなんてない。ちょっと賢いわたくしが馬鹿なあなたに一言申しますけど、なんてスタンスをとってくる理由がわからない。それは僕に対してされたことではない場合もあるし、実際に体験したことだってある。妙に自身があったり、ちやほやされたことがある人はきっと自然とそうなるような気がする。まず、母親がそういう生き方をしてきている。
結局何が言いたいか、というと、今何をすべきかさっぱり分からなくなったってこと。母親や、亡くなったおじいちゃんの言っていたことは確実に間違っていないし、悔しいのが絶対的な経験の話である、ということ。就職まではまだ時間はある。でもそれに備える時間の使い方を決断するのはもう目前、というよりはっきりいって焦っている。このままだとなんにも出来やしない。
何が正しいのか、何が合っているのか、まったく分からないよ。とりあえず全国の高飛車は頭を冷やして、僕もきっとそう思わせてしまってることもあるだろうから一緒に頭を冷して、寝る。

決めた

この間までは対して欲もなくただだらだら過ごす負の日々だったけど、おととい、2月くらいにゾゾタウンで予約したシャツが着払いで届いた。すっかり忘れていたし、お届けは5月上旬とか書いてあったはずだから思わぬ出費と言わざるを得なかった。まぁでもやっぱり即決しただけあっていい買い物をしたと思う。いつも買うのとは違うショップの服を買うとやけに新鮮な気持ちになる。大人になったよう。ただ気に入ってたニットに親指入るくらいの裂け目ができてしまったのは想定外過ぎて相当ショック。そんなこともあり、また大量に服が欲しくなった。一度財布が緩むときつく結び直すのは難しいのは分かっている。けど、来月はたくさん働くと誓ってまた色々と買い漁りにきっと行く。
火がついたのは物欲だけで、あとは大して変わらない。とりあえず、曲作りなんかは日々の原動力だったりもしたけど最近はアイデアが思いついてから形にしていない。しっかりやり始めて4ヶ月が経過するけどこのままだといけないから、とりあえず今月中に形にはしよう。これは決意書である。
やはり生活は習慣で成り立っている。今までだらだらやってきた人間は、だらだらすることに時間を使う習慣があるから結局忙しいのだ。だらだらする時間を確保して、別のことにも時間を使おうとすると睡眠時間を割く羽目になる。もう少しタイトな生活も送ってみよう。もう2時である。また今日もだらだらで忙しかったし、睡眠時間も削られている。無駄である。
7時に必ず起きよう。これは決意書である。

お久しぶり

あっという間に4月も中盤に差し掛かりました。いかがお過ごしでしょうか。僕は春休みの気分が抜けないまま今日までだらだらと過ごしています。そろそろいけない、と思う。とりあえず朝はしっかり起きるようにしよう。
春は出会いと別れの季節と耳にたこができるくらい聞かされますが、やっぱりそうだと毎年実感する。お世話になってたバイトの先輩が就職でやめ、また学校ではなぜだか友達が増えた。そんな中で思うのが、そういえばあいつかは元気かな?ということ。昔のクラスメイトだったり、一時期よく遊んだ友人だったり、地元の先輩や後輩、転校しちゃったあいつ。とにかく、時間によって切り離された仲の人たちは、ふと今どうしているのか気になる。去年辺りから、地元の友達とか先輩後輩とかちょっとだけ会う機会が多くなったのもあって、昔一緒に過ごした人を懐かしむ瞬間が増えた。
一期一会って言葉があるけど、割と本気で素敵な言葉だと思う。出会いはあちこちにあるし、はっきり言って誰と出会ったっていいし、まず誰だっていい。誰だってよかったうちの誰かと出会って、なんだか仲良くなって、性格を知って、考え方も分かるようになって、家庭のことなんかも垣間お見ちゃったり。ただの人と人との生活の交じり合いなのに、こんなに自分を揺るがしている。それが出会うということ、思い出っていうもの。自分の生活の一部でそれを蓄積させたのが人生だから、出会いで成り立っているようなものだね、人生はきっと。コネとかいうのもそれの一部の使われ方だろうし。
だから、そんな出会いをお国が決めた教育期間だとかであっさり終了なんてのはやっぱり悲しいね。別れの積み重ねもまたやっぱり人生なんだね。
うえきの法則って漫画も一期一会がテーマだったりして面白い。戦いに勝つと1つ好きな才能を手に入れることができて、主人公は最後に再開する才能を手に入れていた。僕も欲しいなぁ再開の才能。誰かと特別再開したい、ていうのは無いけど、僕の今を形容する過去を作った人たちは一体今どうしているのか、僕のことを覚えているのだろうか。
そういえばfacebookで懐かしい人から友達申請が来た。もっとfacebook活用してみようかな。だけど、意図的な再開もなんかやだな。
とにかく、出会って知り合えた全ての人はバックナンバーにしては勿体無い。
なんて思った春の一時。それでは、また逢おう。

あたたたた

暖かくなりましたね。すっかり春の陽気、といった感じ。今年はどうやら花粉が例年と比べて多いらしい。僕もけっこう重度の花粉症なのだけど、そんな感じはあまりしない。すごく有難い。といっても油断は禁物。
春は冬よりも少しずつ暖かくなり、風も心地よくなるから、つい薄着をしがちだけど本当は暖かいと言えるのは昼間だけ。昼間から行動をはじめる僕からしたら、近頃の朝の気温はどういった感じかわからないけど、夜は風が冷たいこともある。だから服装については、ここ最近頭を悩ませている。昼暖かくても夜は寒いかもしれないし、日差しは気持ちいいけど風は意外と冷たいかもしれない。

充電がもうないや。今日は暖かいのかな。何を着ていこう。
僕の働く店舗にヘルプで来てくれた女の子が愛嬌があってかわいかったなぁ
おやすみおはよう

夢を掴めYouTube

将来の夢はなんですか?と聞かれると、まだ決まっていないとか医者になりたいとか割りとストレートに返ってくることが多い。小さい頃は仮面ライダーだのウルトラマンだのと、叶いもしないことをただただ熱望していたが、小学生になってからは、たこ焼き屋さんと少しだけ現実的になり、中学生くらいからは漠然と将来について考え出す、大体の人がこのように未来の自分を想像していくことと思う。よく、両親も将来について真剣に考えろ、と口癖のように言っていたが、そんなこと言われても、とつくづく感じていた。きっと医者の跡取りを目指していない限りはそうやって過ごしてきた人も多いはずである。ただ、最近思ったことは、将来の夢、とは職業選択ではない、ということだ。将来なりたい自分、であって就きたい職業などはその付属に過ぎない。

12月頃に高熱をだし、2、3日寝込むことがあった。あまりにも暇で、充分すぎるくらい睡眠をとっていたためそのときの僕に残されていたのは音楽をかけることくらいしかなかった。枕元にあったipadYouTubeを開いた。
きっと誰もが見たことある、topページに現れるhikakinというユーザーのチャンネル。3~10分くらいの短い商品紹介の動画をあげているユーザーである。とりあえず、時間を潰すために幾つか見て、そこそこ長い時間を掛けてほとんどの動画を見終わった。それから、寝る前、毎日更新される毎に見るのが日課となった。
そのhikakinという人物。一体何者なのか?毎日動画を上げているが定職はないのか?見ているうちに分かったのだが、彼はYouTubeで動画を上げることが仕事であるのだ。彼の出した書籍のタイトルも''僕の仕事はYouTube''である。収益は、動画による広告収入である。詳しくシステムは分からないが、とりあえず再生回数が一定数あるユーザーに広告料が入るらしい。
Hikakin氏は、初めは趣味のヒューマンビートボックスの動画を上げていたが、再生回数をあげるため、商品紹介の動画をあげたり、それを毎日やってみたりと続けた結果、今や日本で1番再生回数を持つ人物にまでなり、それを職業としたのだ。そういったYouTuberと呼ばれる人は、他にも世界中、といってもそう多くはないと思うが存在する。
十数年前の作文に誰が将来はYouTuberになりたい、と書いただろうか。長くなったが、将来の夢、とは既存の職業を選んでいくことではない、ということだ。今、僕にもやってみたいことがあるが、ストレートに言い表せるものではない。まだ決まっている部分や勉強すべきことがあるため詳しく語ることはしない、というより自分でも出来ないため、近付ける見込みがあればどんどん聞いてもらいたいと思っている。
とにかく、将来の夢の話では、なりたい自分や、チャレンジしたいことを語ってみると一味違って面白いと思う。

機種変更をして、前のやつよりも充電の持ちがいい。前のは出掛けて家に帰る頃には充電はほとんど無くなっていただ、今のはそれでも余る。寝る前に20%を切った状態で充電するのが理想だけど、最近は35%くらい残してしまうから15%を使うためにわざわざ動画を再生してみたり犬の写真を撮ってみたりと無駄に時間を過ごしてしまう。今日はわけあって帰りが遅く、4時頃になって布団に潜り込んだが、それでも40%残っていた。充電せずに寝てしまおうかと思ったのだが、明日起きてすぐ出掛けるようなことが起きたら、と思ったら残り20%を使わずにいられなくなった。そんなこんなでゲームアプリをやっていたが、とうとう今できる分をやり尽くしてしまったためこうして記事を書くことにした。
最近のスマートフォン事情についてはまた今度、Xperiaの新作が発売になったときにでも書こうと思う。
今日人と食事をしてて思ったのが、最近自分のどうでもいい、それこそ上記のような充電がああだこうだと言う話をすることが増えた。豆乳は体にいいんだ、とか服の小さなこだわりとか、好きな匂いとか。相手は聞いててどう思ってるか分からないけど、そういう個人的なことを話しているのは悪くない。つまり、個人的などうでもいい話を聞いてくれる人がいいな、そう思った。聞くことは嫌いじゃない、むしろ昔は聞いてる方が楽だったし好きだったし、自らネタを持ってくるようなこともあまりしなかった。なにが変わったのか分からないけど、自分の中の何かが確かに変わったような気がする。冷静に考えれば、自分の話しかしないやつなんて空気の読めないこと極まりないが、そこは、自分の空気を持ち込んでいるときにしか話していない、と思う。
そういった人間関係のことだが、この間みたドラマ、月9の松本潤石原さとみのドラマでいいセリフがあった。「気を使わない仲がいいんじゃなくて、この相手になら気を使ってもいい、と思える仲がいい」うろ覚えだがこんなようなニュアンスだった。よく、気を使わない仲、と言うようなことがあるが、言いたいことは分かるけど気を使わないのはどうだろうな、と今までモヤモヤしていたが、こう言われて、なんだがすっきりした。気を使う、というのはやはり気疲れしてしまうものだ。その気疲れがない、という意味では、気を使わない仲、というのと気を使ってもいいと思える仲は、共通項のような気がするが、気を使ってもいいと思える仲、にはすごくしっくりさせるものがある。あぁこいつの話なら聞いてやってもいいな、僕の話を聞いてそう思ってくれたらすごく嬉しいことだし、多少つまらない話でも、こいつなら聞いてやってもいい、そう思える相手なら僕を聞いてあげることができる。男女が別れる原因は、そこで生じたほころびかな、とも思うと尚更しっくりくる。気を使わない、ということはきっとなくて、気を使ってもいい、という真意を孕んでいるのだ。相手に合わせる、それにどこか窮屈さを感じると知らず知らずのうちに距離が生まれていくのだろう。それに心地よさを感じている間はきっと平気。
とはいっても、人付き合いとはそんな一筋縄にはいかない。僕は互いにどうでもいいことをべらべら話せていればいいや。早起きのみなさん、おはよう。

変わる

東日本大震災から3年が立ちましたね。3年。長くも感じるし短くも感じる。時間の経過は、「今思えば」あっという間と感じるけど、じっくり振り返ってみるとそれはそれは色々な出来事や感情を経てようやく今に辿りついた、と考えると長かったと感じることができる。この3年を振り返ると、今でこそミノムシのような生活だが、確かに色々なことを経験したといえる。色々な感情や考えを経て、今が完成しているんだな、と。僕の住む町も、利用する駅やその周辺もとても3年で変わった。最近は、「前はここに何が建っていたっけ」と新しい建物を見る度思い返すことも増えた。小さい頃遊んだ公園は市営住宅になり、栄えていた商店街はとうとう肉屋を残すのみとなり、更地がパーキングになり。なにやら町中に権利が敷き詰められているような気がする。3年、5年、10年、と振り返るとやはり物悲しい。
それを地震は全て奪ったのだ。懐かしさや物悲しさ、新しいものと過去のものが交わって行くようす、そしてその町に住む人々。そんな町の記録の数々はその瞬間に文字遠いの塵と変わった。その「塵」一掬いに家やテーブルや人骨が含まれている。その有様は想像するに耐えない。

今yahooで「3.11」と検索すると、その数につき10円がyahoo側から寄付されるという。僕も3、4回くらい検索したら1回きりだそうだ。ただそれで思ったのだが、僕はただ検索しただけなのだ。例えば、知り合いに10円募金しておけよ、と言うのと全く同じ。その10円が支払われたかは分からないし、自分は何もしていない。むしろ少ししてやったような気になっている。その検索募金は500万円が上限だという。それなら500万円払えばいいんじゃないか、そんな単純なことじゃないのかもしれないが、用意された500万円があるなら、そんな検索どうこうとやらずすっと寄付すればよいのではないか。いやもしかしたら初めから500万円は払うつもりで、日本人がよく利用するyahooというメディアが検索で募金、というならではの訴えで人々から東日本大震災であった数々の出来事を風化させないために便宜上そういう形にしているのかもしれない。ただ、それはやった気になった人々を少なからず呼ぶだけではないか。偽善という言葉があるが、僕は偽善であってもやったという事実は、少なくとも事実である。しかし、検索はただ委託しただけ。中には、思いよ届け!と検索をかけている人がいるかもわからない。当然、募金やら何かしらボランティアのようなものに参加するというような作用をおこしているということも十分にあるだろう。
決してその検索募金が悪いシステムだとは思わない。僕が嫌なのは、やった気になった人がいるということ。簡易なシステムで自分は何もせずに気持ちだけ熱くなる。忘れないことは大事だし、少なくとも東日本と呼ばれる地域でそれを体験した人にとっては忘れ難い出来事であるから、気持ちが熱くなるのは構わない。自発作用が大事である、と思う。
したり顔で検索するなら、気持ちくらいは大事にとっておいて欲しい。
そして明日は我が身という言葉がある。そこにそれらは繋がることも。ドンキホーテで防災グッズを買ってお釣り募金すれば十分である。